生まれてはじめて作業衣を着た私は、兄弟子にどなられて飛んでいくと、しずくがポタポタと垂れているいま入ったばかりの自動車の下、もぐりこまされた。
アンダーカバーを修理するのである。
仕事としてはまことに他愛のないことであったが、そのときの私は、手のかじかむのも知らず、ただ無我夢中であった。
「おお、小僧なかなかよりやるしかなく」と主人がそば、きていった。
そのときから私もいくらか主人に認められたのだろう。
いやな子守りの仕事はしだいに私から遠のき、自動車の修理が多くなった。
もともと自分の家でも多少自動車をいじっていたので覚えも比較的早かったようだ。
しかも、根が好きであったから、仕事の回数が多くなるにつれて、主人の覚えもよくなってきた。
こうして一年半ほどは、夢のようにすぎてしまった。
九月(大正十二年 一九二三年)のことであった。
もう間もなく昼飯になるころであった。
突然、遠い地鳴りが聞こえたかと思うとグラグラッと大地がゆれだし、建物がきしみ、立って歩くこともできない大きな地震になった。
関東大震災である。
地震と共に、私は何を考えかり電話のそば、飛んでいくとドライバーで電話器を敬はずしていた。
私にしてみれば、電話というものが珍しいばかりでなく非常に高価なものと聞いていたからであった。
私のこの行為は私が考えていたほど大事なことではなかったことがわかった。
「電話器だけではなんにもならん」と主人に笑われた。
「電話が高いというのは電話器そのものじゃなくて権利が高いのだ」 私はなんとなく不服だったがそういうものかと頭をかく思いでうなずくしかなかった。
この電話というやつが、また、私たち田舎出のものにとっては恐ろしい存在であった。
電話のベルが聞こえると、びくつとしたものだ。
だれかが受話器をはずすまでは落ちつけなかった。
というのは電話に出ればかならず失敗するか、田舎弁を笑われるかするのが落ちだったからであった。
地震とほとんど同時に、あちこちから火の手が上がと商会にも火の手がまわってきた。
修理工場であるから、あずかっている自動車を焼いたら、んである。
「自動車を出せ、運転のできるものは運転して自動車を安全なところ、はこべ 私は内心、しめたと小躍りする思いで、修理中の自動車にとび乗って街路、出たが、街路は避難民でごったがえしている。
その群衆のあいだをぬって、とにかく私は自動車を運転していったのである。
自動車を運転しているのだという感激のほかには、私はほとんど何も感じなかった。
まさに私の人生にとっては歴史的感激だったといえる。
運転そのものは全く危なっかしいものだったが歓喜は生涯に二度と味わい得ないほどのものであった。
震災でアート商会も焼け出され、私たちは主人一家と共に、神田駅に近いガード下、移転した。
その隣がどこかの食料品会社の倉庫だったので、私たちは毎日その倉庫、行って、焼けのこりの権詰類をもってきて飽きるほど食べたものであった。
そうして暇さえあると、オートバイに乗って焼け野原の街、出るのが日課であった。
東京の半分が焼けてしまったのだから、修理の仕事などあろうはずもなかった。
街なかをとばしていくと深川方面から焼け出された人たちが、田舎、帰りたいのだが交通機関がだめになっているから思うようにならない。
そういう人たちをサイド・カーに乗せて、板橋あたりまで乗せていくと、ずいぶん金をくれたものであった。
金があっても、買う物がない状態だったから、金遣いも荒かったのだろう。
そうして帰りには、板橋在の農家から米を買ってきたこともあった。
主人のいいつけで田舎の両親に無事でいることを手紙はしたがそんなことより私は毎日のように自動車かあるいはオートバイが運転できるのが、田舎のことなど忘れていらいであった。
この震災を境に、私も一人前に近い修理工になれたようなものである。
震災後主人が芝浦のある工場で自動車が焼けたまま放ったらかしてあったのを見て、その修理を一手に引き受けてきたことがあった。
「とにかく動くようになおすのだ」と主人がいうのである。
十五、六人いた修理工たちも震災でほとんど田舎、帰っていたときだったので、私と兄弟子の二人でインチキ車の修理にかかった。
いま考えると、修理のほうもたい、インチキだった。
スプリングにしてもなんで焼きを入れたのかわからない。
シャシーにしても焼けているし、塗装もニューのようにやれというわけで、とにかく、自動車の体裁をととのえることに一生懸命であった。
それで組み立ててみると、立派にエンジンがかかった。
自分ながら不思議に思うほどであった。
すると、主人がどこか、運転していって高く売りつけてくる。
「あれだって、立派にニュー・カーだからなく⊥というわけである。
この仕事でいちばん困ったのは、やはくスポークであった。
当時、自動車のスポークはみんな木製であったから、焼けてしまってどうにもしょうがない。
木製スポークといえば、車大工でさえつくれなかったのだから、私たちが苦労したのも当然である。
ともかくそれも成功したのだから、私たちの歓びはちょっと言葉では表現できないほどのものであった。
その翌年私は十八歳になっていた。
もう一人前の修理工として、主人も私を認めてくれるようになっていた。
夏のことであった。
不意に、主人が私に盛岡、出張してくれという。
「仕事は消防自動車の修理だがたいしたことはない。
君ならもう充分やれる」 私は歓んでこの役目を引き受けた。
生まれてはじめて見る東北地方である。
上野から十数時間汽車にゆられて盛岡につくと「小僧じゃないか」とがっかりした表情で迎えられた。
私は内心不服だったが十八歳(現在でいえば十六歳だ)では反駁のしようもなかった。
したがって、旅館の女中たちからも小僧あつかいをうけ女中部屋の隣室におしこめられる始末であった。
翌日からいよいよ仕事にかかり、次々と消防自動車を分解していくと「小僧さん、そんなに分解しちまって、組立てができるかね」とまた小僧あつかいにする。
私は内心で歯をくいしぼくながら、いまに見ていくと無言の抵抗をつづけていた。
やがて分解から組立てを終わり、試運転してみると、見事に動き出した。
「おお、動いたぞ。
水が出る⊥まるで奇跡が起きたようなさわざになった。
私は内心でざま見ろといいたいところであった。
その日の夕方、仕事を終えて旅館、帰るとさっそく床の間つきの。
等室、案内された。
夕食には酒も一本出た。
小僧あつかいではなく、立派な一人前の修理工に昇格したわけだが、そのころは私もまだ純情であった。
酒などわり口にする気にもなれなかった。
いまなら、女中部屋の隣室におしこめられるなど地の利がよい、と心のなかでよからぬ目算をたてて喜んだことであろう。
帰京すると、主人もひどく喜んでくれた。
その月末、私ははじめて給料らしい金をもらった。
金五円也かねがね欲しいと思っていた金モールつきの帽子を、四円近い大金を払って買った。
そのときの嬉しさはいまでも忘れられない0 こういったことから、私は技術のほうでは主人に高く買われるようになく、徴兵検査まで、精いっぱいの奉公をつづけた。
徴兵検査で甲種合格をまぬがれると、さらに一年間、お礼奉公としてアート商会で働いた。
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